今日は2015年の大晦日、朝7時過ぎから大掃除を開始して今はぐったりしながらブログを書いています。
2015年は拡張型心筋症による心不全、入院、余命を告げられ、補助人工心臓を植え込み、脳出血、退院、休職、復職など波乱万丈な一年でした。
この記事は2015年12月31日(VAD装着322日目)のリライト記事です
人生最悪の元旦
元日の午後、なんとなく「調子が出ないぁ…」とは感じていたのですが、私は飲み物とお菓子を買いに近所のディスカウントショップへ車を走らました。
そして、ディスカウントショップに入ってから急に息苦しくなりました。
私は鉛のように重たくなった身体を引きずるようして、飲料売り場まで一直線に歩いて向かいました。
本当に苦しかったのでしょう、目につくものをカゴに入れてレジに向かいました。
嘔吐と下痢がはじまる
お店を出て車に向かうのですが、その車までが異様に遠くにあるように感じました。
車の後部座席にドサッと荷物を置いた時、強烈な吐き気に襲われました。
口元を押さえながらディスカウントショップのトイレい向かい、上から大量リバースしたのと同時に腹痛と下痢も始まりました。
車内で少し休み、落ち着いてから再び車を走らせて自宅へ帰りました。
自宅でも吐き気や下痢が続いたのですが、年末に北海道から取り寄せた生ガキを大量に食べていたこともあり、その時はノロウイルスにでも感染したのだろうと思っていました。
寝正月
私は家族にノロウイルスをうつさないよう、一人自室に閉じこもり外部との接触を避けていました。
1月3日、ようやくお粥が喉を通るようになったものの、やはり吐き気が止まらずにしょっちゅうえずいてました。
仕事がはじまる
仕事を数日間休み多少体も楽になりました。しかし、何となく吐き気が残る状況が続きました。
それでも抱えているプロジェクトがあったので仕事をするために通勤していました。
1月中旬、研修へ向かう途中に大きな変化がありました。
高田馬場駅で地下鉄東西線に乗り換える下り階段の途中、どうしようもない苦しさでしゃがみこんでしまいました。断りの電話を入れ、自宅に引き返すことにしました。
その帰りの電車内ではこみ上げてくるものを押さえきれず、上石神井駅で救護されていました。
私は自分と人を欺くのが上手なようで、何とか家に帰ったんですよね。
様子見の日々
その後も日を追うごとに咳が酷くなりはじめ、苦しい状態が続きました。
かかりつけのクリニックに行ったりもしました。
処方された貼り薬を使うと不思議なことに少し楽になったんですよね。
しかし、次第に症状はひどくなっていきました。
ベッドで横になると激しく咳き込むようになり、ソファーに突っ伏すようにして寝るようになりました。
その時には腹痛もひどく、ひたすら色々な症状に耐えていました。
まともに食事もとれていなかったので、1月末には体重が10キロ近くも落ちていました。
馬鹿真面目?単なる馬鹿?
今でこそ本当に馬鹿なことをしていたと思うのですが、その状況でも休み休み会社に行って仕事を続けていました。
その頃には5歩進んだら右手に持ったカバンを地面に置いて10秒休むという状況で、会社の最寄駅から歩いて会社に行くことが難しくなりました。
最後の方は最寄駅から自腹でタクシーを使って通勤していました。
そしてある日のこと、本当に限界だと思って同僚と上司へ仕事の引継ぎを開始しました。
そして、2月に入って今いる大学病院にかかりました。
自宅から電車とバスで向かったのですが、先生からは「よく歩いてこれたね」と言われ、即入院となりました。
私が極度の馬鹿なのか?サラリーマンだからか?それとも人体の七不思議なのだろうか?人は極限まで苦しさに耐えられてしまうこともあるようです。
致命的な心不全状態
ほどなくして現実を突きつけられました。
拡張型心筋症で重度の心不全を起こしており、2つの選択肢を提示されました。
内科治療を継続する
既に強心剤なども反応していないようで、内科治療では今後回復する見込みは極めて少ないことを告げられました。
具体的な見通しを知りたかったのか、私は医師に「あとどれくらい生きられるのか」と問いただしました、その答えは次のようなものでした。
もって2週間くらいかもしれないし、1カ月かも知れない、もしかすると奇跡的に半年以上もつかも知れないし、数日かもしれない。
補助人工心臓を植え込み、心臓移植を待つという選択
VADを植え込むことを勧められましたが、私はVADもバルーンも拒否しました。
このあたりは色々なやり取りがあったのですが、結果的にVADを植え込むことを選択しました。
その時の記憶はあいまいなので、それぞれの出来事の順序は正しくないのかも知れません。
その間にも容体がみるみると悪化していき、気が付いたらIABP(大動脈内バルーンパンピング)を施され、ほんの少しだけ苦しみが和らいだことを覚えています。
VADの植え込み手術は「13日の金曜日」
入院して7日目である「13日の金曜日」に手術が行われることになりました。
しかし、手術当日の明け方に容体が急変し、酷く咳き込み苦しみました。
医師からは「容体がかなり悪い。麻酔をしたら、そのまま…」という前置きがあって「それでも手術を受けるか」と私の意思を尋ねてきました。
この頃には手術を受けることに迷いはありませんでした。
私はこのままでは本当に死んでしまうと感じていたこともあるし、心の奥底では根拠のない自信のようなものがあったからです。
言葉を発することが出来ない私がどのようにして意思を伝えたのか覚えていませんが、「やってくれ」と伝えたことは覚えています。
周りには妻、両親がいます。
既に喋ることすらできない。
ただ、伝えたいことはある。
何とか伝えることはできないか?・・・
死にそうに苦しい中、そんなことを考えていました。
CCUからベットを動かそうとする直前、私は家族に向けて親指を立てました。
大丈夫、手術なんて大したことない、心配しないでくれ
かならず戻ってくるよ
強がりのメッセージであり、自分への言い聞かせでもあったと思います。
実際、家族にそのメッセージが届いていたかどうかは分かりませんけどね。
それ以降の記憶はありません。
ホッとした大晦日
私にとっての2015年とは、その殆どを苦しさが占めていました。
しかし、その苦しさの中にも何気ない大きな幸せを感じることもありました。
何と表現すればいいのか分かりませんが、私の幸せの感度が上がったんですかね?
自宅で新年を迎えることが出来るということは嬉しいことですが、正直なところ胸中は複雑で素直に喜ぶことはできません。
「この一年間死なずに済んだ」
そういう意味では少しホッとした気持ちで大晦日を迎えられています。
家族には面と向かって感謝をすることが出来ていませんが、とても感謝しています。
これまでの私の生活は、家族が起きる前に家を出て、夜遅くに帰宅するようなリーマン生活でした。
しかし、今は子ども達と一緒に長い時間を過ごすような生活に変わりました。今の私にとって、子ども達の成長を間近で感じられることはとても幸せです。
2015年の元旦に比べれば、今の体調は段違いに良いです。
結果オーライというところでしょうか・・・
皆様、良いお年をお迎えください。
私は気づいた、体外VADだったんですよー。
本人に許可なしに体外なんて!!酷すぎる。
今となってはアレがあってのJarvik でのマゴコロさんなんだけど。
「気が付いたら体外式VADが入っていた!」
きっと、状況的にそれしかなかったのですよね。
私も体外式VADのイメージしかなかったので、目覚めてアレが付いていたら今とは全く異なる感情だったでしょうね…
術前説明では「体外式になる可能性もある」と言われていましたが、結果的に植込みVADだったので本当によかったです。
旧ブログの、発症時の投稿でも読ませてもらってますが、私の夫と似た「急に悪くなる」状況を改めて、ひりひりしながら読みました。
私の夫も会社LOVEの人なので、最寄りの駅まで歩くことができなくなっても通勤してました。夫は町医者→最寄りの総合病院→心臓病専門病院→大学病院と行き着いてのVADだったのですが、町医者からの紹介状を持っての最寄りの総合病院で単身、初回外来に行って「即入院しますか?」と言われたくせに一度帰宅して、その時の検査結果を聞きにも単身で出かけて即入院となりました。今考えると、いつ突然死してもおかしくない状況だったのだなあと、その間に何事もなかった幸運をしみじみ感じます。
イシイさんは、その時に初めて拡張型心筋症だと診断されたのですか?それとも、その前から治療していたのに、2014年末から重度の心不全になったのですか?
はい、本当に急に悪くなりました。
その前から調子が悪かったといえば悪かったのかも知れませんが「仕事で疲れているんだろうなぁ~」くらいにしか思っていませんでした。
調子の悪さに慣れてきちゃっていたんですかね・・・
※病歴については公開していないので回答することができません、ご了承ください。
病歴に関する不躾な質問、失礼しました。
働き盛りの年代で心不全になった場合は「疲れているなあ」とか「風邪かなあ」と思ってしまって、まさか心臓が弱っているとは思い至ることができないように感じます。夫と同じ目に遭わせたくないと思って、夫のことを心配してくれた同世代の友人たちには「体調が悪いのが数週間続いて治らない場合は心不全を疑ってみてね」と伝えまくっています。
いえいえ、お気になされないでください。
私も同僚に同じようなことを言っていましたが、説得力があるようで「お前が言うなよ!」という感じもしました…