VADから卒業して投稿する機会を失いつつあります。
季節の変わり目ということもあり、急に冷え込んだ日の午前は「自分はヘビかな?」と感じるほどにズブズブな体調になります。
これは心臓移植をしたからというわけではなく、VADを装着した当初からずっとです。それはある意味で「自分らしい」と思ってしまうことの一つでもあります。
で、記事のタイトルのある通り「当事者の声は美化されるのか?」には「大抵はそうだ」と感じます。
結果的に美化されるのであり、それらは意図して作られたものでは無いとも感じます。
私はこう思います。
事実を咀嚼しようと揺れ動いている時の声こそが「素の声」に近いのかな。
心臓移植を受けた今だからこそ、それを強く感じたりします。
例えば7年前の10月3日のfacebook投稿です。
記憶を頼りに当時の思い出を伝えようとした場合、「礼服のサイズが合わなくなりとても悩みました」とすごくシリアスことのようにとらわれてしまうのかも知れません。
例えば私のVAD生活を「肉野菜炒め一皿」だとすれば、礼服のエピソードは「玉ねぎ一片」程度だったりします。
私は
野菜が入っていればいいや
栄養があればいいや
味塩胡椒と醤油でいいや
白いお皿でいいかな
という感じです。
では、一流料理店の調理人であればどうでしょうか。きっと求めるモノも違うことでしょう。
玉ねぎ一片にも色・艶・形・火の通り加減・醤油の味など、私には到底想像することも出来ないような内容かも知れません。
では人物像やバックグラウンドの殆どを隠してしまった場合、受け手はどうような印象を持つのでしょうか?
職業なのか、家族の食事を作る人なのか。
味の好み
色の濃淡
美食家
フードフォトグラファー
大火力
一人前、家族分
金銭
性別年齢
人物像やそのバックグラウンドの情報を与えない場合、すべては相手の解釈によって決まると想像します。
何が言いたいのかというと、話をしている本人を含めて「誰も知らない事実もある」ということです。
私は「当時、どのように感じたのか」を伝える際には出来る限り記録に基づいて話すよう心掛けています。ただ、数千のブログ記事、数千のSNS投稿、数千の動画、数万の写真を今更ながら再公開する時間はありません。
それでも「当時はこう感じていたよ」と言えるように記録は続けています。YouTubeなどに動画を公開しているのもその理由の一つです。
しかし、それさえも「肉野菜炒め一皿」の「玉ねぎ一片」でしかない。
全ては脚色されれば美化もされる。
ということで、私の当時のエピソードは皆さまご自身で解釈頂けたらと思います。
私も自身もどのような方の闘病体験であったとしても「ごく僅かな」「一側面」だと考えるようにしています。
だからこそドッシリとブログ書いている方、発信をされている方を尊敬しています。
数は少ないよりも多い方が良いと思いますが、自分自身を含めてノイジーすぎるモノものになっていないかは気をつけたい。
それが積極的にVADブログを投稿しない理由の一つでもあります。新たな記事を投稿する都度、過去の事実を探すことが手間である、それも皆さまには感じ取ることの出来ない一側面だったりします。
聞かれたら答える努力はします。井戸バド会議では皆さんの会話を邪魔しない程度には答えます。
先週は珍しく外出していたので開催していません。(今夜は開催していますか?という開催確認メッセージはキリがないのお答えしません。
毎週土曜日の夜8時開催
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